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受け入れられない突然の別れ

交通事故で大切な人が亡くなるということ

池袋・三ノ宮と交通事故が続いている。池袋の事故でなくなった母子の父親のコメントが新聞に掲載されていた。また、写真も掲載されていた。「同じようなことが起こらないように」との願いから、写真の掲載をOKしたそうだ。

私の叔父も、バスの運転手だったが事故で突然なくなった。私の父とは違い、模範的な父親で子供からもとても好かれていた。うちの前に住んでいたので、何かあると飛んできて助けてくれた。たとえば、うちの玄関の上にハチの巣があり、私が刺されたときに飛んできてくれて、巣を落としてくれた。とてもマメな叔父だった。

そんな叔父が勤務中になくなったのはもう何年前だろう。叔父の末っ子がまだ中学生だったからもう20年くらい前になるんだろうか。

叔父は模範的な運転手で、事故は一度も起こしたことがなかった。そんな叔父が事故の日、高速道路でちょっとした接触事故を起こしてしまった。いつも冷静だったはずの叔父だが、その日はバスから降車してしまい、後ろから来た牽引車に撥ねられ亡くなった。即死だったらしい。

義理の弟に、それまで色々と相談にのってもらっていた母は、その日から全く声がでなくなった。叔母は、何日も号泣していた。

事故で人がなくなるというのはこういうことなんだと、あの時強烈なショックを受けた。

しかし、それからの生活が一転するのは加害者の家族も同じ。事故後の処理がどうなったのかは詳しく聞いていないが、裁判になり、補償がどれくらいになるのか等々が結構長い時間話し合いが行われていたような記憶がある。

 

池袋にしろ三ノ宮にしろ、事故を起こした運転手は高齢の方。周囲へのバッシングも起こるのかもしれない。確かに、家族が止められなかった、自分で仕事を辞めたり、免許を返せなかった、そういうことに問題があるのはもちろんだと思う。でも、今回の話をそれだけで済ましてしまっていいのだろうか?と思う。

技術的なことで解決できるのか?法律で解決できるのか?地域の取り組みで解決できるのか?簡単に言うことはできないけれど、超高齢化社会に向けて、車の運転についてはもっと根本的に、また早急に考えなければならない課題なのだろう。

ご高齢になられて、足が不自由だから車を使いたい、確かにそうだよなと思う。でも、車を使わなくてもよくなるような仕組みを、私たちが考えていかなければいけないんだろう。「こうなればいい」という具体的なことが書けない自分も情けないが、父も母も70歳を超えている私も、そろそろ真剣に考えなければならない。